自己肯定感

自己肯定感は必要なもの

人は老若男女誰でも、意識的にも無意識的にも自己肯定感を得たいと思って生きているものです。

自己肯定感とは自分は大切な存在だ、かけがえのない存在だと思う感情、感覚のことです。
自分に自信が持てたり、自分を好きになることで、物事に積極的になれたり、他者との関係性をうまく保つことができたり、色んな意味でとても必要なものだとされています。


自己肯定感を得るための望ましい方法と望ましくない方法

ではどうすれば自己肯定感が得られるのでしょうか?

小さな子供であれば周りの人から、特に親から愛情を受けていることで得られたりするそうですが、大人になると目標を立ててそれを達成したり、周囲から褒められたりいわゆる成功体験をすることで得られるようです。

それでは、周りから認められているという感覚、愛されているという感覚、自分が有能な人間であると感じる感覚、つまり自己肯定感をこれからさらに得るためには? そこには大きく分けて2つの方法があると思います。

一つは、まっとうに努力して何かを成し遂げて自信をつけたり、自分の能力や技術を周りから評価されたり、人柄に対して好意を持ってもらったり、これらは自己肯定感を得るときには望ましい方法だと思います。

もう一つは、望ましくない方法。それは周りを下げることです。
自分の実力がなくても、これといって努力してなくても、あの人は間違っていると思えば自分は勝てる、というか勝てた気分に浸れます。あの人はひどいと言えば自分の正当性を主張できる、というか正しい気分に浸れます。
周りを下げてダメだ無能だとレッテルを貼れば、自分が有能だと勘違いして優越感に浸ることができてしまうのです。

実際に周りを下げていた過去とその後悔

自分の過去を振り返ってみても、若い時にこのようなことをしてしまっていたな、と情けなく思うことがあります。

特に自分にまだ実力がない時にこのような傾向がありました
例えば、私は学生時代にラグビー部に所属していましたが、下級生だった頃、先輩のやり方に陰で文句を言っていたり、あの人のこういうところがダメだなどと勝手にレッテルを貼ってしまうこともありました。

これは実力不足で自分の思い通りにならない中で、ちっぽけな優越感に浸るためにこのようなことをしてしまったのかな、と今では思います。
でも、自分が上級生の立場になって始めて、その立場の大変さ、先輩たちの偉大さや有能さに気付くのです。そして、過去の自分の考えや行動を後悔することがありました。

周りを下げている間は、自分の成長は妨げられてしまいます
これに気づかず続けると、周りには同じような無能な人がどんどん増えるだけです。無能な人の中でどんなに自分がトップをとっても、それは実力があるとは到底言えませんね。
結局、周りの「有能さ」をみいだせない自分が「無能」なだけであって、本当は周りはとても有能ということは往々にしてあるのではないでしょうか。

有能な人達に囲まれて努力するから自分も成長できるし、その先には真の意味での自己肯定感を得ることができるのです。

自己肯定感が得られる環境にしていきたい

私が最近、こうなってはいけないと思った最たる事があります。
それは、昨今よくニュースで話題になる、少年達が1人を集団暴行して死なせてしまうような事件です。
周囲から評価してもらえない、自己肯定感の低い若者たちが集まって、さらに年下や立場の弱い人間を攻撃する。そうすることで、自分たちの自己肯定感が満たされる感覚に陥っていたのかと感じました。

まさに井の中の蛙、お山の大将といえるでしょう。

人間は自分と誰かを比較することは誰でもあります。でも自分の上にはどれだけでも上がいるし、下にはどれだけでも下がいます。
どちらと比べるかは自分次第。

ここで、私がいま置かれている環境を客観視してみます。
この水の森美容外科のスタッフ達は皆素晴らしい人達が集まってきていると思います。
もちろん立場も違うし、それぞれに個性があり、得意不得意はあります。しかし、お互いの良いところを見出したり、自分と違う部分を尊重しあいながら切磋琢磨することで成長し、皆が自己肯定感を得られる環境であることを望んでいます。
私自身、過去の反省も踏まえながら、周りを下げることでちっぽけな優越感に浸ることがないように心掛けていきたいものです。